ヒグマは、風に乗った匂いを遠くから辿って食べ物を探すとされます。そして秋になると、冬眠に向けて食欲が爆発的に増す時期を迎えます。この「鼻の良さ」と「秋の大食い」は、どちらも単なる体質ではなく、ホルモンや代謝の仕組みに支えられています。動画では紹介しきれなかった研究の中身を見ていきましょう。
「イヌの何倍」という数字は使わない理由
ヒグマの嗅覚について、「イヌの7倍」「10倍」といった説明がインターネット上でよく見られます。この記事を作るにあたって根拠を確認したところ、示されている数値は資料によって食い違ううえ、嗅覚受容体遺伝子の数など裏付けとして挙げられている研究も、実際にはヒグマとイヌを同じ条件で比較したものではありませんでした。そのため本記事では、特定の倍率は採用しません。確かなのは、風下の匂いを長い時間をかけて辿れるという、観察に基づく報告です。その鼻で見つけた食料を、秋にはどう処理しているのかを見ていきます。
秋の大食いを止めるのも、始めるのも脳のホルモン
ヒグマを含むクマ類は、秋になると「ハイパーファジア」と呼ばれる過食期に入ります。ワシントン州立大学の研究チームによる発表によれば、この食欲の切り替えには、満腹感を伝えるホルモンであるレプチンが関わっています。ハイパーファジアの最中である8月ごろは、レプチンが脳に対してほとんど効果を発揮せず、満腹を感じにくいまま食べ続けられる状態になっています。ところが晩秋になると脳の感受性が変化し、レプチンが再び食欲を抑える働きを取り戻すとされています。[1]
同じ研究チームは、冬眠中のヒグマが完全なインスリン抵抗性を示すことも報告しています。通常であれば血糖値の異常や糖尿病につながりかねない状態ですが、ヒグマではこの抵抗性が一時的で元に戻るため、大量の脂肪を蓄えても体に害が出にくい仕組みになっているとされます。[1]
冬眠中は心拍も体温も大きく下がる
スカンジナビア・ヒグマ研究プロジェクトが2020年に発表した研究では、野生の若いヒグマ13頭に心エコー検査を行い、冬眠中の平均心拍数は1分間に26回(標準偏差8)、初夏の活動期には71回(標準偏差14)だったと報告しています。心臓の収縮の強さを示す指標は低下していた一方、心筋そのものが萎縮する様子は確認されなかったとされています。[2]
体温の低下は他の冬眠動物ほど大きくなく、「浅い冬眠」とも呼ばれます。興味深いのは、冬眠中は一切食べず飲まず排尿もしないにもかかわらず、窒素代謝の指標である血中尿素が通常の半分程度まで下がる一方、クレアチニンは2.5倍ほどに上昇するという、2013年の研究報告です。本来であれば老廃物として排出されるはずの尿素由来の窒素を再利用し、腎臓に長期的な負担をかけずに数か月間を乗り切る仕組みがあることを示しています。[3]
ヒグマの基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 分類 | ネコ目(食肉目)クマ科、学名 Ursus arctos |
| 日本の亜種 | エゾヒグマ(Ursus arctos yesoensis)。北海道に分布し、現代の日本列島に生息する陸棲哺乳類の中で最大とされる。[4] |
| IUCN保全状況 | 種全体としては軽度懸念(Least Concern)。ただし地域個体群ごとに評価が異なり、北海道庁は石狩西部・天塩・増毛の個体群を絶滅のおそれがある地域個体群に指定している。[5] |
| ハイパーファジア期の目安 | 8月下旬〜11月頃。この時期、食べられるものを幅広く食べ、栄養を蓄える。[6] |
まとめ
ヒグマの鼻の良さをめぐる具体的な倍率の主張には裏付けの怪しいものが広く出回っていますが、風下の匂いを長く辿れるという能力自体は複数の資料で一致して報告されています。そしてその鼻で見つけた食べ物を、秋にはレプチンの働きが一時的に鈍ることでひたすら食べ続け、冬眠中は心拍・体温を落としつつインスリン抵抗性や窒素の再利用までこなすという、体全体で冬を乗り切る仕組みが動いています。動画とあわせて、その仕組みの奥行きも感じていただければと思います。
参考資料
- ワシントン州立大学:Life in the fat lane(Rigano et al. 2017, Journal of Comparative Physiology Bの研究紹介)
- Jørgensen et al.:Cardiac adaptation in hibernating, free-ranging Scandinavian brown bears(Scientific Reports, 2020)
- Stenvinkel et al.:Metabolic Changes in Summer Active and Anuric Hibernating Free-Ranging Brown Bears(PLOS ONE, 2013)
- Wikipedia:エゾヒグマ
- 北海道新聞デジタル:ヒグマ絶滅危惧から除外へ
- 栗山町公式ホームページ:ヒグマの生態と痕跡の見分け方

